巻頭言「からし種の信仰  ~よこしまな時代の中で~ 加藤 誠」

 先週のあけぼの幼稚園創立感謝礼拝ではヘブライ12章2節の英語訳聖書の言葉、「Having our eyes fixed on Jesus, the guide and end of faith」(信仰の創始者であり、完成者であるイエスから我々の目を離さずにいよう!)から説教させていただいた。不条理と悲しみがあふれる世界にあって「それでも神を信じて生きていこう!」と信仰の光を私たちの心に灯してくれた主イエス。どんな時でも、どんな状況にあるわたしのことをも見放すことなく最後まで神に向けて導き続けてくれる主イエス。

その主イエスから目を離すことなく、神の愛にしっかりとつなげられていくことを願い、今日から何回かに分けて福音書の主イエスが私たちに指し示している「光」や「希望」、「信仰」について聴き取っていきたいと思う。

 マタイ一七章には、主イエスの前にひざまずく一人の父親が登場する。てんかんで苦しむ息子の癒しを乞いねがう父親。その訴えは切実である。にもかかわらず主イエスの言葉は冷たく聞こえる。「なんと信仰のない、よこしまな時代なのか…いつまで、あなたがたに我慢しなければならないのか」。

いったい主イエスは誰に苛立ちをぶつけているのだろう?

この父親だろうか?弟子たちだろうか?…それとも主イエスと同じ時代を生きているすべての人に対してだろうか?

とげとげしい主イエスの言葉に戸惑う弟子たちに、主イエスはずばり切り込んでいく。「信仰がうすい!」、「もし、からし種一粒ほどの信仰があれば、そのとおりになるのだ!」と。主イエスが弟子たちに求められた「からし種一粒の信仰」とはどのような信仰なのか。それを今朝、聴いていきたい。