巻頭言「いのちのパン」加藤 誠

 「五千人の供食」は、四福音書すべてが伝えている大切なお話です。四つの福音書すべてが共通して取り上げているのは主イエスの十字架と復活くらいですから、「五千人の供食」の主イエスが、初代教会の人びとにとってどれだけ大きな喜びであったかを知らされます。ローマ帝国の巨大な権力の前に吹けば飛ぶような「小さな、小さな自分たち」。でもその「小さなもの」を喜び、神の前で賛美の祈りを唱えて祝福してくださっている主イエスの姿を想い起しては、初代教会の人びとは福音宣教の業に励んでいったのでしょう。

 ただヨハネ福音書は、この「五千人の供食」の出来事を通して、「イエスという方はどういう救い主であるのか」を深く掘り下げて語っていきます。この方の存在そのものが、私たちに永遠の命を与える「いのちのパン」であり、この方は御自身を「いのちのパン」として十字架にささげられたのだ…と。

 そしてヨハネ福音書はもう一つ、この「パンの奇跡」において、主イエスの思いと、人びと(私たち)の思いが「どれだけすれ違っているか」、人間の持つ罪深さ(神の御心との遠さ)を示していくのです。

 私たち人間は「食べて、お腹が満腹になるパン」を求める。そのような「パン」を自分たちに与えてくれる者を「神」とし「王」としてあがめていく。しかし主イエスはそのような「神」「王」として担がれることを拒否されます。

 そして主イエスははっきり語りかけます。「朽ちる食べ物のためではなく、いつまでもなくならないで、永遠の命に至る食べ物のために働きなさい。これこそ、人の子があなたがたに与える食べ物である」(6・27)と。

 さて、わたしは日々どのようなパンを求めて働いているのでしょうか。