巻頭言「「赦すこと」はむずかしい  ~よこしまな時代の中で~ 加藤 誠」

 「わたしに理不尽な罪を犯した人をどうすべきですか?」という質問を受けたなら、主イエスはどうお答えになるでしょうか。

 A「行って二人だけのところで忠告しなさい」。

 B「七の七十倍までも赦しなさい」。

 実はどちらも主イエスの言葉ですが、一見するとAとBはまったく正反対の答えのように思えます(マタイ十八章十五節と二二節参照)。しかもマタイ福音書はわざわざこの二つの言葉と教えを並べています。まるで「この二つの言葉が指し示している主イエスの真意、神の赦しをよくよく考えなさい」と言っているかのように。

 いったい主イエスが教えられた「赦し」とはどういうものなのでしょうか。

まず第一に「その罪はなかったことにする、水に流す」ということではなさそうです。例えば主イエスを十字架に追いやった人々の罪はどのように赦されるのでしょうか。その罪は決して消えないし、消せないものです。なぜなら神の愛と正しさに敵対するものだからです。ですからその罪は決して消えない。にもかかわらず、主イエスの十字架の犠牲と執り成しの祈りにより、その人の手錠は外され、罪から「解き放たれる」のです。

 それゆえ第二に主イエスの「赦し」は「罪を憎んで、罪人を憎まず」ということになるでしょうか。「あなたのしたことは罪である。しかし、わたしはあなたを赦す」。私たちに対する神の深い赦しは、日々罪を重ねている私たちの「手錠」を解き放ちます。しかしそれは「無罪放免」ではなく「有罪放免」なのです。そのことを忘れたなら「仲間を赦さない家来のたとえ」のように神から「お前は大きな勘違いをしている!」と厳しく叱られることになるのです。