巻頭言「「ささやかな聖所」となった神 加藤 誠」

「しかし、わたしは、彼らが行った国々において、彼らのためにささやかな聖所となった」(エゼキエル11・16)。

 聖書日課でエゼキエル書を通読しながら、「今、コロナ危機を歩む私たちのために語られている御言葉ではないか!」と思ったのが、右の御言葉である。

エゼキエルが預言者として召されたのは南ユダ王国がバビロニア帝国の侵攻を受けて滅亡寸前の時代。第一次捕囚でバビロンに連行されたエゼキエルたちはエルサレム神殿という「聖所」を失い、深い悲しみと信仰的危機の中にあった。異教の地では「聖所建設」などもってのほか。動物の犠牲をささげることも大きな声で賛美をすることも許されない。せいぜいできたとして、隠れて集まり、小さな声で祈ることくらいだったことだろう。「エルサレム神殿で犠牲をささげるのが正統な礼拝」という教義が強烈にインプットされていた人びとにとっては、「神さまに犠牲をささげられない礼拝なんて、礼拝とは言えない」という深い失意の中にあったようだ。

けれども主なる神は、捕囚の地にある人びとに「わたしはあなたたちのためにささやかな聖所となった」と語りかけられていく。そしてこの経験が彼らの「礼拝観」を大きく変革するのである。「立派な神殿で動物の犠牲をささげる」のが唯一の礼拝方式ではない。神と出会うための祈りの時間を静かに取り分け、御言葉に静まって聞き、ささやかに賛美をささげる。その中に主なる神は「ささやかな聖所」として共に歩んでくださるのだ、と。異教の地で日々苦闘の歩みを重ねている一人ひとりの「ささやかな聖所」になられた主。それはイエス・キリストの歩みそのものでもあったと言えるのではないか。