六月二十三日の沖縄慰霊の日を前に、沖縄バプテスト連盟主催の合同平和礼拝が二十日夜に開かれた。「沖縄、ちむぐりさぬ日を覚えて」。「ちむぐりさ」は沖縄の言葉で「肝苦りさ」。直訳すれば「はらわたが痛む」。誰かの痛みを自分のものとして一緒に痛むこと。「あなたが痛むからわたしも痛む、あなたが悲しいとわたしも悲しい」という共振共苦をあらわす言葉。
「Fixed on Jesus」とは、主イエスの愛にしっかりつながることだが、同時に主イエスが何に痛み、悲しみ、どんな祈りを祈っておられたかにつながること。
主イエスは出会う一人ひとりの悲しみ、苦しみをご自分のものとして一緒に悲しみ、苦しまれた方。その意味ではまさに「ちむぐりさ」を生きた方である。
マタイ十八章に繰り返される「これらの小さな者」とは誰のことだろう? これまでの主要な解釈は「信仰の弱い人」。神さまへの信仰を途中で失い、信仰から離れて迷い出てしまう人のこと。そういう「信仰の弱い人」を主イエスはどこまでも探しだしてくださる…という解釈。
けれどもよく読むと「これらの小さな者」を「つまずかせる要因」がこの世界には満ちていて、さらには「つまずかせる者」が存在することへの神さまの激しいまでの憤りが書かれている。つまり信仰を失ってしまった者を「ダメな仕方ない奴だなぁ」とつぶやいているのではない。その人が神のもとから離れて行かざるを得ない事情に深く心を痛めながら、「信仰を手放さざるを得なくなった君の悲しみや失意はよく分かる。でももう一度、神の愛のもとに戻って一緒に歩んでいかないか?」と呼びかけ、その「ひとり」をどこまでも探し求める主イエスの祈りが、ここに示されている気がしてならない。