聖書を読んでいると、「これってほんと?」「こんな理解でいいの?」と反応せざるを得ない箇所と出会う。例えば第一テモテ二章八節以下をどう読まれるだろうか。この手紙の著者(パウロと記されているが、ほんとうにパウロが書いたのだろうかと疑問をもつ学者もいる)は、「婦人が教えたり、男の上に立ったりするのを、わたしは許しません」と強い口調で教え諭している。
「聖書に書かれていることに疑問を持つべきではない。神の言葉としてそのまま受け入れるべき」という読み方もあれば、「疑問を持つ箇所と出会ったら、聖書全体を読み直して、自分で考え続けることが大切だ」という読み方もある。さて、「わたし」は聖書をどう読むのだろうか。
創世記冒頭の人の創造物語を読み直してみると、「男が女よりも先に造られた」とは言えない。二章で最初に造られた存在は「土」(アダマ)から造られた「人」(アダム)と呼ばれていて、まだ男女の性は決定していない。三章では「女だけがだまされた」(第一テモテ2・14)のではなく、「女も男もだまされている」し、男の方が神に責任転嫁していて女よりも「ずっと質が悪い」。「先に造られた男がえらい」(第二テモテ2・13)というが、創世記一章の創造物語は最後に造られた人間をもって「創造が完成した」という理解があり、二章でも「女の創造をもって創造が完成した」とも読めるわけで、「早い者がえらい!」とは別の考えが示されている。また「女は子を産むことで救われる」(第一テモテ2・15)との主張は主イエスの教え(ルカ11・27~28)を完全に否定するものである(山口里子『虹は私たちの間に~性と生の正義に向けて』より)。
「この言葉は真実です」(第一テモテ3・1)を「わたし」はどう読むのだろうか。「リコンストラクション(再構築)」は「こうであるはず/あるべき」という思い込みを脱して、聖書全体を読み直して自分で考えることから始まる。