クリスチャンでない方を新礼拝堂にご案内した際、多くの方がバプテストリー(浸礼槽)に大きな関心を寄せられる。ある教会員が友人にバプテストリーを見せながらバプテスマの意味を説明すると「わたしの罪はゴシゴシ洗ってもちょっとやそっとでは落ちないわ」と言われたとか。
確かにバプテスマというと「罪を洗い清める儀式」と理解されていることが多いように思う。「罪は汚れであり、その汚れは主イエスの十字架によって清く真っ白にされる」と。けれども私たちの罪というものは、もし真っ白に清められたとしても、残念ながらその日のうちにまた汚れてしまうのではないか。そうなると毎日バプテスマが必要ということになる。
使徒パウロは、バプテスマのことを「キリスト・イエスの死へとバプテスマされる(沈められる)」と表現している(ローマ6・3岩波訳参照)。つまりバプテスマとは全身をキリストの死へと沈められ、キリストと共に復活の命に生かされること。ガラテヤ3・26~27(岩波訳)では「キリストへとバプテスマを受けたあなたがたは、キリストを着て、神の子とされた」とも表現している。
私たちは心の根っこから「神に背を向けた存在」である。神の語りかけに耳をふさぎ、自分の好きなように生きたいと神に背を向け、さまざまな悲しみや痛みを自分の周りに毎日創り出して死の絶望に向かって生きている者である。けれどもそのような者をキリストの恵みはすっぽりとおおってくださる。その神の愛と赦しを受け取り、キリストのあとに従い、神の国の働きをささげていく。それは、どんな拙く未熟な者をも「あなたはわたしのもの!」と呼んでくださる方の愛に信頼し自分を委ねて歩む、希望に向かう歩みなのだ。