巻頭言 生き方は神へのささげもの 加藤誠


 先日、七一歳で天に召されたYさんが残された手帳に「人生は神からのプレゼント、生き方は神へのささげもの」(アメリカのテニス選手)という言葉と「神は与え、神は奪う。しかし最後に残るのは愛」(東日本大震災に想う)という言葉がメモされていた。

 Yさんご夫妻は二人の息子さんのあけぼの幼稚園入園を機に大井教会の礼拝につながられた。当時、南大井に引っ越してきたばかりのご夫妻はあけぼのについて何の予備知識もなかったそうだが、「キリスト教の幼稚園がいい」というYさんの一言で即決したという。それはYさん自身が幼い時に教会の幼稚園に通われた経験が下敷きになっていたとか。ということは、大井教会に導かれるはるか昔、幼いYさんの心に御言葉の種は蒔かれていたのである。

 Yさんは四七歳の時に、愛する妻Hさんを癌で亡くされた。「わたしが死んだら再婚してもいいのよ。でも教会の礼拝には通い続けてね」というHさんの言葉を受け、Yさんは妻の召天直前にバプテスマを受け、その約束を生涯最後まで守られた。

 私たち人間にとって一番大切なのは「矢印」ではないか。私たちはどこに向かって生きるのか。「矢印」によって、その人の生き方はまったく異なったものとなる。聖書は私たちに「神に向かう矢印」を示している。命そのもの、個性、才能、さまざまな出会いやチャンスを、自分という「矢印」に向けて用いるのではなく、神から与えられた力、賜物として、神に向かい、神にささげて用いていく。この「矢印」に生きるとき、私たちの人生は神の豊かな恵みの祝福を体験していくのである。