天の国は近づいた  普天間バプテスト教会牧師  神谷武宏 

イエスは、悪魔から誘惑を受けます。この誘惑そのものは、それ自体が悪だとは言い切れないでしょう。石をパンに変える業を身に着ければ、この世界から飢えが無くなる。力や繁栄を手にすることが出来ればキリスト伝道を効果的に進め、社会をより良い方向へリードしていくことが出来るかもしれません。しかし、イエスはその誘惑を退けます。この世で生きることは、神でありながら人として生きることでした。この現実の社会の只中で人として生きる決断をされたのです。

その悪魔の誘惑を退けたイエスでしたが、「ヨハネが捕らえられたと聞き、ガリラヤに退かれ」ました。イエスご自身の身にも危険が及ぶからでしょうか。先ほどの悪魔を力強く退けたのに対して、ここでは何か弱腰のようにも思えますが、しかし「力」とか「正義」というものは、必ずしも力に対して力をもって制することではないでしょう。イエスは、押し迫る力に対して退く姿勢を見せます。それは一見消極的で卑屈な印象を持たれるかもしれませんが、決してその意味において「退く」のではないのです。

ガリラヤに退いたイエスは、カファルナウムの町に住まわれました。「異邦人のガリラヤ、暗闇に住む民、死の陰の地に住む者」たちの只中に入って行かれたのです。押し迫る力に対して、力で押し返すのではなく、むしろ押しつぶされそうな人々のところまで退いて行かれました。押し返した先に神の国があるのではなく、押してくる力から退いたところで、押されっぱなしの人たちと神の国をつくろうとされます。「暗闇に住む民は大きな光を見、死の陰の地に住む者に光が射し込んだ。」そしてイエスは「天の国は近づいた」と宣言します。

私たちは、その神の国の宣言をどこに立って聞く者でしょうか。