創世記には兄弟間の「骨肉の争い」が幾例も描かれています。カインとアベル(4章)、イサクとイシュマエル(21章)、ヤコブとエサウ(25章)、ヨセフと他の兄弟たち(37章)。相続権を巡る争いの厳しさは現代の比ではないにしても、人間にとって兄弟が共存して生きていくことは、大きな葛藤を伴うものであることを知らされます。それだけに「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び」(詩編133・1)と歌われたのでしょう。
イサクとイシュマエルの場合は、本人同士の争いというよりも、正妻サラと女奴隷ハガルの間の争いでした。息子の相続は、母の老後の安泰を左右する一大事だったのです。旧約聖書はイサクの子孫(イスラエル民族)の視点から書かれたものですから、イシュマエルの子孫(ベドウィン。現在のパレスチナの人々)のことはほとんど描かれていません。けれども、神は、荒れ野に追放されたイシュマエルを祝福し、養い(創世記21章)、父アブラハムとの確執を乗り越えさせて、イサクとの和解へと導き、父の葬儀に際しての約70年ぶりの再会へと導かれたのでした(同25章)。
このことを考える時、今日のパレスチナでイサクとイシュマエルの子孫が血で血を洗う争いを繰り返している状況に心が痛みます。神の祝福は独占するものではなく、他者への祝福を尊重しつつ、分かち合うものではないでしょうか。ところがわたしたちの現実は、他人への祝福を見てうらやみ、妬み、ひがみ、溝と対立を深めてしまっている。その歪みをどのように正され、癒され、自分への神の祝福と計画にしっかり向かい合っていくことができるのか。
これはわたしたち一人ひとりの大きな祈りの課題です。