大いなる喜び   加藤 誠

主イエスは「天の国のたとえ」を、実にさまざまな題材を用いながらイメージ豊かに語っています。その場合の「天の国」(神の国)とは死後の世界ではなく、日々の現実世界に生きて働く「神の愛」のことです。「神の愛はなかなか目に見えないけれど、たとえば、こんなふうに生きて働いているのだよ」とたとえを用いて語られたのです。

 

「畑に隠されている宝」(マタイ13・44)。畑とは、わたしたちが生きている世界。その中に宝(神の愛の働き)は隠れている。宝を見つけた人は、宝だけをこっそり盗み取るのではなく、畑を正当な値段で買い取って宝を手にします。なぜか。自分の持ち物を売り払って畑を買い取る、つまり現実世界を労苦して買い取ることなしに、神の愛だけを切り離して手に入れることはできないからです。神の愛はさまざまな労苦や不条理あふれた現実に隠された形で、生きて働いているからです。

「良い真珠を捜している商人」(同13・45~46)は、最上級の真珠を見つけると、大きな喜びにあふれて持っているものすべてを売り飛ばしてそれを買うのです。さらに高い値段で売ってひと儲けするためでしょうか。いいえ、真珠に対する深い愛のゆえにです。他のすべてを手放しても、大きな喜びがあふれて仕方ないからです。この喜びあふれた商人の姿に、わたしは徴税人ザアカイの姿が重なります(ルカ19・1以下)。ザアカイの名を親しく呼び、自分に非難が向けられることを覚悟で近づいてくれた主イエスとの出会いを通して、ザアカイの人生は、富の力に心を支配された人生から、託された富を豊かに用いる人生へと大きく転換したのでした。