二十八年前に神学校を一緒に卒業した仲間の中に、K牧師がいます。今、悪性リンパ腫と闘いながら宮崎の地で牧師として立てられ続けています。発熱と全身を襲う痛みに耐えながら、病院と自宅を往復する日々。その厳しい治療の様子を聴くたびに胸が痛くなるのですが、それでも彼は説教奉仕を手放さない。時に原稿代読のこともあるようですが、厳しい病の中で聖書のみ言葉に聴き続け、取り次ぎ続けているのです。そして、送られてくる彼の写真は笑顔満面。「どんな時でも、どんな状況でも、神さまは最善しかなさらないから、大丈夫」。主イエスにつながり、主イエスの十字架と復活の福音に支えられている信仰に、わたしの小さく薄い信仰が吹き飛ばされるのです。
使徒パウロは、イエス・キリストを信じないどころか、イエスの弟子たちを迫害する中心人物でした。十字架で無残な死を遂げたイエスを「メシア(救い主)」と吹聴する連中は生かしておけないと、次々に縄をかけていったのです。パウロにとって十字架は「愚かさ」であり「弱さ」であり、その十字架にはりつけにされた男が神の子であるとは断じて認めがたいことでした。
そのパウロが、キリストの十字架はまさに自分のためであり、その愚かさと弱さこそ神の豊かな憐れみと恵みにほかならないことに目を開かれた時、彼は十字架の福音を証しする者へと百八十度大転換させられたのでした。
「わたしたちは、十字架につけられたキリストを宣べ伝えています。…神の愚かさは人よりも賢く、神の弱さは人よりも強い」(第一コリント1・23a、25)。
イエス・キリストの復活を祝うイースターの主日、十字架に注がれた神の深い憐れみと恵みを受けたいのです。