勇者よ、主があなたと共に    加藤 誠

今朝は「士師記における信仰と礼拝」に聴きます。

「ヨシュア記」と「士師記」はイスラエルの人々が約束の地カナンに入植する時代を描いた歴史ですが、両書には戦争の残虐性や、女性の尊厳をおとしめる話であふれており、新約のイエス・キリストの福音に立つ時、それらの物語を「無批判」に読むことはできません。イスラエルの人々にとって神の約束の成就である「入植」は、パレスチナの人々にとっては「侵略」に他ならず、現代のパレスチナ問題に深くつながるのです。一方で、現代のわたしたちが旧約の人々に比べて「少しはましに」成長したのかというと、どうなのでしょう。同じ愚かさを性懲りもなく繰り返しているわたしたちではないか。そのわたしたちを神はどのような未来に向けて導こうとされているのでしょうか。

 

小心者のギデオンが、敵であるミディアン人の目を避けて酒ぶねの中で小麦を打っていると、主の御使いが来て「勇者よ、主があなたと共におられます」と告げます(士師記6・12)。ギデオンは「マナセ族の中で最も貧弱な一族に属し、家族の中でも最年少である」(同15)と、自らの「小ささ」を自認していましたから、「勇者よ」という神の呼びかけは、あまりに現実を無視した見当はずれな呼びかけに聞こえたはずです。しかし、神はその呼びかけ通り、まさに「勇者」としてギデオンを用いていくのです。

目の前の現実を直視すること、そして自らの小ささを自覚することは大切なことです。しかし同時に、天地を創られた神が「わたしはあなたと共にいる!」と呼びかけ、「立ち上がりなさい!」と神ご自身の働きに召し出そうとされる声を聴いていくことは、それ以上に大切なことなのです。