信頼    加藤 誠

 二週にわたる合同学習会で「信徒の働き、牧師の働き」を学ぶ機会をもちました。日頃、「バプテストの教会になりたい!」と願っている大井教会にとってはとても貴重な場面です。テキストを読み合わせたら「ハイ、終わり」ではなく、立てられた牧師と立てた信徒が「チーム」として組み合わされていくためには絶えざる点検が必要です。教会の活動のさまざまな場面で「バプテストの牧師の立ち方としてどうなのか?」、「バプテストの信徒の姿勢としてどうなのか?」という問いが率直に交わされていくことを期待したいのです。

 

例えば、バプテスト教会の牧師の立ち位置は、信徒の「上」に立って指導するというより、信徒の「下」に立って支えるイメージをもちます。指導者としてガンガン引っ張っていくのではなく、信徒一人ひとりが「自分で聖書を開き、考え、祈り、自分の働きを教会の中に見つけていけるよう」に「下」から、み言葉と祈りで支えるイメージです。寄り添い、伴走するけれど、大切なのは「あなたと神さまの関係」。救いを与え、いのちを与え、希望を与えるのは、神ご自身の働きであり、み言葉であり、牧師ではない。救世主はイエス・キリストのみであって、牧師は決して救世主にはなれない。キリストを指し示す役割を担うのです。教師もただ一人、イエス・キリストのみ。牧師は説教の奉仕に立ちますが、正解を知っているということでは決してなく、信徒と同じ地平と目線で一緒に聖書に聴く姿勢でその奉仕にあたるのです。

 

さて、使徒言行録の中で感動的な場面の一つ、「パウロとエフェソの長老たちとの別れ」(二十章)に今朝は聴きます。パウロが力を注いで指し示そうとしたこと。それは「神の恵みの言葉」への信頼でした。