エズラ記・ネヘミヤ記」は、バビロン捕囚から帰還した人々が朽ち果てたエルサレム神殿再建という難事業に取り組む姿を描きます。人々は自分の故郷に帰り、家屋を建て、畑を耕し直します。それだけでも骨の折れることだったことでしょうが、その人々が「第七の月」にエルサレムに集まるのです。
「民はエルサレムに集まって一人の人のようになった」(エズラ3・1)。
「一人の人のように」なって人々は何をしたのでしょうか。それは「礼拝」でした。かつての神殿の建物は跡かたもありませんでしたが、土台が残っていたので、その上に祭壇を築いて「焼き尽くす献げ物」をささげたのです。
エズラ記三章とネヘミヤ記八章の報告を合わせ読むと、その時の様子が立体的に浮かび上がってきます。祭司エズラが「律法」(創世記~申命記)を読み聞かせると、人々は夜明けから正午まで立ったまま(!)それを聞きます。そこには信仰の先輩たちがエジプトの奴隷状態から解放されて荒れ野で主なる神を礼拝した様子が描かれていました。
「民は皆、律法の言葉を聞きながら泣いていた」(ネヘミヤ8・9)。
バビロン捕囚から解放されて荒れ果てた故郷に帰還した自分たちと先輩たちの姿が重なって迫ってきたのでしょう。彼らの目には涙があふれたのでした。すると、総督ネヘミヤが民に語りかけるのです。「今日は我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である」(同8・10)。
わたしたちの「力の源」はどこにあるのか。家を建て、畑を耕す手をひと時休めても、人々が「一人の人のように集まった礼拝」を覚えたいのです。