主は「我が嗣業」なり    加藤 誠

今朝は「ヨシュア記における礼拝」に聴きます。

「ヨシュア記」は四十年の荒れ野の旅を経て、イスラエルの人々がいよいよ約束の地カナンに入植していく物語です。彼らの目の前には水を滔々とたたえたヨルダン川が流れ、その行く手をさえぎるのですが、神がその水をせき止め、人々は無傷で約束の地への一歩を踏みしめるのです。この時の神の力強い奇跡的な働きを永遠に心に刻むため、人々はヨルダン川の川底の石を十二個積み上げて記念碑とします(ヨシュア記4・8)。そして、レビ族を除く十一部族に「くじ引き」で入植地が割り当てられ、人々は荒れ野の旅を導いた神との契約を新たにし「わたしとわたしの家は主に仕えます」(同24・15)と告白するのです。

 

各部族に「くじ引き」で決められた入植地のことを、聖書は「嗣業」と呼びます。「嗣業」とは「遺産」「相続」、さらに「運命」とも訳される言葉で、他に譲渡しえない、その人のために神が与えられたものを意味します。レビ族にとっては「イスラエルの神、主ご自身」が「嗣業」となります(同13・33)。固有の土地を持たず、神ご自身をいただいていくのです。この信仰は新約聖書に受け継がれ、「召された者たちはキリストを通して永遠の財産を受け継ぐ者とされる」(ヘブライ9・15 )と告白されています。

 

さて、わたしの人生の旅は、また、わたしたち大井バプテスト教会の旅はどこに向かう旅でしょうか。何を守り、何に仕えていくための旅なのでしょうか。わたしたちは、主なる神ご自身を「嗣業」として受ける旅に招かれていることを、新礼拝堂建築に向かおうとしている今、あらためて確認したいのです。