使徒パウロがフィリピ教会の人々に宛てて書いた手紙二章を読みます。青野太潮先生(岩波訳)は次のように訳しています(傍線は加藤)。
「そこで、もしもあなたがたのうちにいくらかでもキリストにある慰めがあるのなら、もしもいくらかでも愛の励ましがあるのなら、もしもいくらかでも霊の交わりがあるのなら、もしもいくらかでも愛の思いと憐れみとがあるのなら、あなたがたは私の喜びを満たしてくれるように。それはあなたがたが同じことを思い抱くためである。すなわち、同じ愛を抱き、心を共にし、一つのことを思い抱きながら、なにごとも党派心によってではなく、虚栄心によってでもなく、むしろ謙虚な思いによって互いを自分よりも優れた者と考え、おのおのが自分自身のことばかりにでなく、むしろ他人のことにもそれぞれに注目しながら、同じことを思い抱くためである。」(2・1~4)。
ここに四回も繰り返されている「もしもいくらかでも」の言葉が心に響きます。パウロが「もしもほんのわずかでも、あなたがたの中にキリストが生きて働いておられるなら!」と語りかけているかのようです。パウロが思い抱くように勧めている「同じこと/一つのこと」とは何でしょうか。教会の中に「いろいろな個性、感性、考え」があることを喜んでいるパウロですから、「同じ個性、感性、考え」を求めているのではないことは確かです。パウロが求めた「同じ/一つのこと」とは、「どうか十字架に向かって歩まれたキリストがわたしの内に、わたしたちの間に生きて働いてください…と祈り求めること」ではないでしょうか。その時、わたしたちは自分のことばかりに注目するのでなく、他者の優れた点に注目し、神の働きに向けて互いに組み合わされていくのです。