キリスト我が内に在りて   加藤 誠

使徒パウロは叫びました。「最早われ生くるにあらず、キリスト我が内に在りて生くるなり」(ガラテヤ2・20文語訳)。すさまじい告白です。「わたし」ではなく「キリスト」が自分の内に生きている、「わたしにとってはキリストがすべて」とパウロははっきり言い切ります。もし自分からキリストを差し引いたら「何にも残らない」とパウロは答えるでしょう。
では、わたしの場合はどうか。「もしわたしからキリストを差し引いたら何が残るか?」という問いを自分に向けるとき、どう答えられるでしょうか。

浜谷不二さん(2005年召天)という女性信徒が遺した信仰詩があります。「主よ みたまによって歩けません/主よ みたまによって祈れません/主よ 信仰ありません/では何があるのですか/導くという約束だけです」。
彼女は呼吸をするように、神への祈りを大切に生きた人です。その不二さんにして「祈れません、信仰ありません」と言わざるを得ない。けれど、その自分の中にそれでも残り続けるものを彼女は見ています。それは「そのおまえをわたしが導く」という十字架のキリストの約束でした。

自分の中からキリストを差し引いても、ほとんど何も変わらないような、実に頼りない信仰のわたしがいます。しかし、「わたしが導く」という主イエスの約束が響きつづける限り、わたしがキリストから離れようとしても、キリストはわたしをとらえて離したまわない。このような者にも宿りたもう主の愛のゆえに、「キリスト我が内に在りて生くるなり」とわたしは告白することができるのです。