釜ヶ崎で日雇い労働者と生活を共にし聖書を翻訳した本田哲郎神父による『フィリピの人々への手紙』。キリスト・イエスを受けて「キリストのための人生」を与えられた者は、何に心を向け、何を心に響かせ、何を大切に選び取っていくのか。キリストの十字架をアクセサリー程度にしか感じ取れていない、私たちの貧しい信仰と感性を、本田神父の訳は厳しく問うてくる。
「あなたたちが神から与えていただいたのは、キリストのための人生です。それはキリストに信頼して歩みを起こすというだけではなく、キリストのために苦しみを受けることでもあるのです。」(本田哲郎訳:フィリピ1・29)
「もし、あなたたちに、キリストと一体であるという励み、人を大切にすることの充実感、霊の人として汚れも分け合う仲間付き合い、痛みを共感するはらわた(熱い思い)があるのなら、あなたたちは同じ感性をもち、人を大切にする同じ思いを抱き、気持ちを合わせて歩み、わたしの喜びをいっぱいにしてください。あなたたちは感性を一つにし、対抗心や虚栄をいっさい捨て、低みからの発想をもって、互いに相手を自分よりすぐれた者と思うようにしてください。めいめいが自分のことだけでなく、それぞれ他人のことにも目を向けるようにすべきです。」(同2・1~4)
「キリスト・イエスは、神としての在り方がありながら、神と同じ在り方にこだわろうとはせず、自分を空け渡して奉仕人の生き方を取られた。イエスは見たところ他の人たちと同じであった。すなわち、姿はひとりの人にすぎないイエスが、自分を低みにおき、神の従属者として立たれた。それも死を、十字架の死を引き受けるまでに。だからこそ、神はキリストをたたえ上げ、あらゆる名に優る名をお与えになった。」(同2・6~9)