大井教会は毎月第一主日に「主の晩餐式」を守ります。主イエスが十字架にかかる直前に、愛する弟子たちと食卓を囲んだ最後の晩餐を想起し再現した礼典です。初代教会の人々は「主の晩餐式」にあずかるたびに、自分たちは何者であり、何のために集められているのかを繰り返し心に刻んだのでした。
「あなたがたは…神の教会を見くびっているのか?」(第一コリント11・22)。使徒パウロはコリント教会の主の晩餐のありようを厳しく問いかけました。同じ手紙の14章を読むと「すべてはあなたがたが造り上げられるようにすべきです」(26節)、「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人ひとりが皆、預言できるようにしなさい」(31節)とあるように、パウロの関心は常に「教会が十字架で裂かれたキリストのからだにふさわしい交わりになっているか?」にありました。ですからパウロは、隣りに座っている友を顧みることなく自分だけ満腹していたり、自らが語った言葉に酔いしれて新来者に配慮のないコリント教会の姿を厳しく批判したのです。
その点で、わたしたち大井教会の「主の晩餐式」は、主の死を告げ知らせると同時に、「キリストのからだ」として建てられる場面になっているでしょうか。例えば、パンと杯が手渡される際、わたしの名を呼ぶと同時に、他の友の名を呼んでおられるキリストの声が聞こえていますか。配餐された後に残ったパンと杯の一つ一つは誰のために引き裂かれ、差し出されているものでしょうか。「主の晩餐式」は、そのとき礼拝堂に居る者だけでなく、「居ない一人ひとり」の名も大切に呼ばれている、十字架の主の食卓なのです。その食卓に求められている「ふさわしさ」(11・27)とはいったい何だと思いますか。