イエスの焼き印   加藤 誠

使徒パウロは自らをこう表現しています。「わたしはイエスの焼き印を身に受けているのです」(ガラテヤ6・17)。

「焼き印」とは家畜や奴隷の所有者を明確にするためにロゴなどが押されたもので、奴隷の場合は背中や腕に押されたと言います。生涯消すことのできない、どこに逃げても誤魔化せない「しるし」、それが「焼き印」でした。もちろんパウロの場合は、身体ではなく、その心に押された「見えないしるし」としての「イエスの焼き印」であり、彼は「イエスを主人として、イエスの思い、祈りに仕えて生きる者」としての自意識を日々大切に生きたのでしょう。

それに対して「割礼」という「見えるしるし」にこだわる人たちがいました。「割礼」は「アブラハムの血筋(イスラエル人)」に属することを証明するもの。しかし「割礼」は自らを「神の民」として誇り、持たない者(異邦人や女性)を見下し、さまざまな敵意や隔ての壁を生み出す原因となっていたため、パウロは大勢を敵に回しても、たった独り「割礼不要論」を展開し闘ったのでした。

 

パウロは言います。「わたしたちの主イエス・キリストの十字架のほかに誇るものが決してあってはなりません。…割礼の有無は問題ではなく、大切なのは、新しく創造されることです」(ガラテヤ6・14~15)。

新生讃美歌六三七番「Here We Stand」(吉高叶作詞・作曲)という賛美歌があります。「主イエスと出会ってはじめて自分に気づいた…/世界に気づいた…」。主イエスのまなざしを大切に受け取り、パウロが言うように自分に押された「イエスの焼き印」を大切に心に刻んでいく時、私たちは神の恵みが創り出す新しい世界を確かに生き始めるのです。