わたしらしく生きる?    加藤 誠

イエス・キリストは何のために来られたのでしょうか。

マタイ福音書はその宣教の第一声を「悔い改めよ。天の国は近づいた」と記しています(4・17)。「天の国」とは「死後に行くところ」ではなく「神の愛の支配」のことです。ですから「天の国は近づいた」とは「神の愛の支配がわたしたちの間にはっきり示された」ということでしょう。主イエスは、その「愛の支配」がいったいどのようなものなのかを具体的に生きられ、人々はその主イエスを通して、「神の愛」の実際に触れたのです。

また「悔い改める」とは日本語では「悪いことをして、ごめんなさい」というニュアンスですが、新約聖書が書かれたギリシャ語では「方向転換」を意味します。生き方の方向を変える。わたしの心と体を「わたしのエゴ」から方向転換して「神の愛」に向けて定めることです。

 

「わたしらしく生きる」という言葉は、多くの場合「自分のやりたいことをして生きる」という意味で使われているように思います。確かに、権力者が「こうしなさい、こうありなさい」と、ある規範を強制する社会であってはならないし、一人ひとりが自分のあり方を自由に選び取れる社会でありたいと願います。しかし「わたしらしく」=「自分のやりたいことをやる」だけなら、この世界には「エゴ」があふれることにならないでしょうか。それに対して聖書が示す「わたしらしさ」は、創り主であり、わたしたちを愛しておられる神と一緒に歩む時に与えられていくものです。わたしの心と体が「神の愛」に向けて方向づけられ、わたしの真ん中に巣食っている「エゴ」が砕かれていくときに与えられていく「わたしらしさ」なのです。