人々は主イエスを逮捕するために「一隊の兵士」(ヨハネ18・1)と共にやってきます。「一隊」とは通常六百人規模だったと言いますから、何とも物々しいことです。兵士たちの松明で「ケドロンの谷」(原語で「黒く暗い谷」)は明るく照らし出されたことでしょう。「ナザレのイエスを捜している」という彼らに主イエスは自ら進み出て「わたしである」と答えます。ただこの「わたしである」(ギリシャ語でエゴー・エイミ)という言葉は「わたしはここにいる」と訳すことも可能であり、わたしはその訳のほうがしっくりきます。
「わたしはここにいる」。これは旧約聖書の出エジプト記3章14節でモーセが「あなたのお名前はいったい何と言われるのですか?」と尋ねた時に、主なる神が自己紹介で用いた言葉です。ヨハネ福音書でも8章と13章で「イエスが神と共に生きている存在である」ことを指し示す言葉として用いられており、それは十字架において明確に示され(8・28)、それを受け入れないなら「あなたがたは自分の罪のうちに死ぬ」(8・24)と語られています。
イエス・キリストがその実存を賭けて、特に十字架の死において明確に示したこと。それは「神がわたしたちの間に共に生きている!」ということでした。しかし、わたしたちはそれを認めません。聖書が証している神が生きているのは都合が悪いからです。神は死んでいてくれていた方がいい。人は好き勝手に生きたい。もっと踏み込んで言うと、「神を信じる信仰者のように振舞いながら、神を殺す」ことさえ平気でできてしまう。それがわたしたち人間です。そのわたしたちがほんらいの姿に立ち帰るために、主イエスはご自分を差し出していきます。この方の実存を賭けた言葉に今朝も聴いていきましょう。