もはや隠されることなく  加藤 誠

アドヴェント第三主日。「喜び」について聖書から聴きます。

旧約聖書には必死で神の姿を探し求め続ける問いが記されています。「いつまで、主よ、わたしを忘れておられるのか。いつまで、御顔をわたしから隠しておられるのか」とダビデは叫び(詩編13・2)、「なぜ、あなたは御顔を隠し、わたしを敵と見なされるのですか」とヨブは訴えました(ヨブ記13・24)。

神は慈しみ豊かな方であるはずなのに、なぜ理不尽な出口の見えない苦難にいつまでも放置されるのか。「神よ、ほんの少し、一瞬でもいいから顔を見せてください」という切実な訴えがそこにあります。マルティン・ルターは私たち人間の理性ではとらえきれない神を「隠されたる神」と表現しました。神への信仰を持たなければ、このような問いに悩まされることもありません。が、神への信仰を真摯に追い求めれば求めるほど、この暗闇のような問いに直面せざるを得ないのです。何という皮肉でしょうか。

 

けれども、そのように神を探し探し求め続ける人々にイザヤは宣言します。

「なんと幸いなことか。すべて主を待ち望む人は」(イザヤ30・18)。

「あなたを導かれる方はもはや隠れておられることなく、あなたの目は常にあなたを導かれる方を見る」(同30・20)。

新約に生きる私たちはこのイザヤの預言がイエス・キリストにおいて成就したことを見ます。それまで神にぶつけられた問いは決して空しく闇の中に消えていったのではない。イエス・キリストがその問いを一緒に抱えて生きてくださり、十字架の死を貫いて復活の命を示してくださったのです。これ以上の幸い、喜びがあるでしょうか。「主が民の傷を癒される日、重い打ち傷をいやされる日」(同30・26)の喜びを共に聖書から受けてゆきましょう。