つぶやきは信頼に変えられて   加藤 誠

今朝は「民数記における荒れ野の礼拝」に聴きます。

エジプト王の圧政のもとから解放されたイスラエルの人々は意気揚々と喜びあふれて旅を始めます。あれだけ強大な権力を誇ったエジプト王を黙らせた、力強い神が一緒に居てくれるのです。何があっても恐れるに足らない。人々は笑顔いっぱい、賛美を口ずさみながら荒れ野の旅に踏み出したのでした。

ところが数日もしないうちに、賛美を歌っていた口から「つぶやき」が噴き出します。「つぶやき」に類する言葉は出エジプト記と民数記とで実に二十回以上も。彼らの「神と共に歩む旅」は「つぶやきの旅」となってしまったのです。

しかし「つぶやきの旅」は、主なる神の恵みの不思議さを人々が身体の芯まで体験していく「信仰の養いの旅」へとさらに変えられていきます。わたしたち人間が神の恵みを味わい知り、自分のものとしていくためには、試行錯誤と失敗が必要なのかもしれません。

民数記十一章には、わたしたちが欲望を「神」とする時、「滅びの墓」を招くことになるという、イスラエルの人々の手痛い失敗が記されていますが、そこにモーセの言葉が響くのです。「わたしは、主が霊を授けて、主の民すべてが預言者になればよいと切望しているのだ」(11・29)。

「預言者」とは、神の言葉を求め、神の言葉を預かり、神の言葉に従って生きる責任を引き受けていくことです。人間の信仰や力では不可能な働きであり、ただ神の霊の導きを必要とします。「愛を追い求めなさい。特に霊的な賜物、預言するための賜物を熱心に求めなさい」(第一コリント14・1)。教会の礼拝は、一人ひとりが「預言者」としての祈りを深めていくところに建てあげられていくのです。