ヨハネ福音書15章は、この数時間後には主イエスを一人残して逃げてしまう弟子たちを前に、ぶどうの木と枝にたとえながら「わたしにつながっていなさい」と主イエスが何度も念を押すように語られた場面です。「光を飲みこもうとする闇の力を前に、お前たちの信仰は吹き飛ばされ、深い挫折を味わうだろう。しかし、わたしはお前たちにつながっている。お前たちの汚れた足を洗い続ける。だから、お前たちもわたしにつながり続けなさい」。
「つながる」とは人格的交わりを意味し、具体的には「主イエスの言葉があなたがたの内にいつもある」(7節)、「主イエスの愛にとどまる」(9節)、「互いに愛し合いなさいとの主イエスの教えを守る」(10節)ことを指します。しかし、「言うは易し、行うは難し」。毎日人間関係の小さなこじれにも苛立ち、ため息をつき、自分を見失っているような者になんと難しいことでしょうか。
今回新たに発見したことは「そうか、主イエスも父なる神の掟を守り、その愛にとどまる闘いを毎日生きられたのだ」(10節参照)ということでした。主イエスこそ「神の愛を離れては、自分は何もできない」ことを最も深く知っていた。だとすれば、「自分はなんと小さく情けない者か…」と己の無力を突き付けられることは、ぶどうの木である主イエスにつなげられていく恵みでもある。主イエスの十字架を前に、弟子としての深い挫折を味わった彼らが、何とか踏みとどまってもう一度主イエスのもとに戻ることができたのは、この言葉が遺されていたからではないか。そう思えてならないのです。「お前たちだけでは何もできない。だから、何度でも戻ってきなさい」。新礼拝堂建築への取り組みのチャレンジもこの主イエスの励ましの内にあることを覚えたいのです。