生まれつき目が見えないゆえに「お前は全く罪の中に生まれた」と断罪され、「物乞い」以外に生きる術を許されないできた男が、主イエスと出会って神の慈しみの下にある自分を知り、喜びの中に立ちあがって、どんな脅しにも屈しない強さを与えられていく姿は、読む者の心を揺さぶります。
彼は分からないことだらけでした。人々がイエスの居所を尋ねても「知りません」(ヨハネ9・12)、「あの方が罪人かどうか、わたしには分かりません」(25節)。主イエスを前にしても、それが自分の目を開けてくれた方であると分からず、「その方はどんな人ですか、その方を信じたいのですが」(35節)と言っています。しかし、彼は「ただ一つ」のことを知っていました。「目の見えなかったわたしが、今は見えるということ」(25節)であり、「あの方(イエス)は神のもとから来られた」(33節)ということを。彼は、ただ「神があらわしてくださった恵みだけを知る者として生きていこう。そこを外れて自分の人生はありえない」と知ったのでした。
それに対して、ファリサイ派の学者たちのもの言いは終始断定的です。「その人は、安息日を守らないから、神のもとから来た者ではない」(16節)、「わたしたちは、あの者が罪ある人間だと知っている」(24節)。彼らは、聖書(旧約)の戒めを軽々と超えていくイエスという男の正しさを少しでも認めようものなら、たちまち自分たちの正しさが崩壊すると感じていたのでしょう。
分からないことだらけでも、多くを知らなくても良いのです。むしろ、自分の正しさを鎧のようにまとうための知識や信仰はかえって邪魔です。ただ神があらわしてくださった「恵みだけを知る者」として生きる。そこにキリストに従う生は形づくられていきます。