さあ、立て。ここから     加藤 誠

今週3月5日(水)から教会の暦で「受難節」(レント)に入ります。イースターの四十日前(主日を除いて)、教会は十字架に向けて歩まれた主イエスの姿を深く心に刻む時を過ごします。今年のイースター委員会で確認したのは、主イエスの「受難」の歩みを心に刻んではじめて「復活」の意味が見えてくる。だから「受難」の聖書箇所をしっかり読もうということでした。

「さあ、立て。ここから出かけよう」(ヨハネ14・31)。この言葉はもともとヨハネ18章「裏切られ、逮捕される」の場面につながるものです。けれども、ヨハネ15章~17章の「主イエスの最後の説教と祈り」が加えられた関係で、両者の間が少し不自然になってしまいました。

「立て、出かけよう」。どこに向かってでしょうか。イエスを逮捕し縛り上げるためにやってくる「世の支配者」(14・30)に向かってです。「ここから」。どこからでしょうか。主イエスが弟子たちの足を洗われた「最後の晩餐」の交わりからです。「この主イエスとの温かい交わりがいつまでも続いたなら…」と弟子たちはどれほど願ったことでしょう。しかし、彼らは主イエスと共に「この世の闇」の中に歩み出していくようにと立ち上がらされていきます。主イエスに従う教会への厳しい招きがここにあります。

 

今日は臨時総会で「(新礼拝堂)建築委員会設置の件」が話し合われます。礼拝堂は何のために必要なのでしょうか。集まって共に礼拝し神の言葉に聴くためです。教会としての交わりを温めるためです。が、「主イエスと共にこの世に歩み出していくため」。この視点を忘れるならば、その礼拝も交わりもただちに「自己保全、自己実現」の交わりに堕落することを心に刻みたいのです。