この自由を得させるために   加藤 誠

 「この自由を得させるために、キリストはわたしたちを自由の身にしてくださったのです。だから、しっかりしなさい。奴隷のくびきに二度とつながれてはなりません。」(ガラテヤ5・1) キリストの十字架を通してわたしたちに与えられた「この自由」とはどのような自由なのでしょうか。

 

「コルネリウス事件」は、それまで割礼を受けたユダヤ教徒だけの集団だった教会の交わりの質を大きく変えていきます。割礼を受けていない非ユダヤ教徒を「同等の仲間」として受け入れることは、それまでユダヤ教徒が大切にしてきた割礼の特権的地位を手放し、十字架のキリストのみを知る者として生きることを意味しました。十字架のキリストの恵みはユダヤ人だけでなくすべての人に開かれている。民族宗教であるユダヤ教から、世界宗教であるキリスト教への脱皮の第一歩。それが「コルネリウス事件」だったのです。

しかし、その第一歩は新たな闘いの始まりでした。人間はそう簡単に変われないし、基本的に安定を好むからです。自分と毛色の違う人には腰が引けて、気の合う人と群れたがる。わたしの心が毎日作りだす心の壁を繰り返し壊されていく。キリストにおいて「新しい人」とされるとはその闘いを歩むことです。

「自由」には、古いしきたりや束縛から解放されて伸び伸びと生きる「からの自由」と、隣人と共に幸いを分かち合うためにあえて自分が損をしたり不自由を選んでいく「への自由」の二つがあります。肩に力を入れて無理をして担うというより、キリストから与えられる喜びを心に受けながら、少しでも軽やかに「への自由」を選び取っていきたいと願います。