この不思議な恵みを   加藤 誠

六月は今年度活動方針「『共に』教会を形づくる ―祈り、ささげる―」の「ささげる」と「祈る」を二回ずつ、第二礼拝の証しと説教で取り上げます。

 

旧約聖書(ユダヤ教)の「ささげもの」の特長は、神の恵みに対する感謝と神への献身にあります。各人が、神からすでに十分与えられている恵みへの感謝のしるしとして「十分の一」をささげます。ご利益や称賛を期待しての「ささげもの」ではありません。それゆえ「大きなご利益を期待してたくさん献金しよう」ということも「献金額の多い順に顕彰されること」もありません。

旧約の人々は「小さな自分たちの力では、あの強大なエジプト王国の奴隷制から決して脱出できなかったし、緑豊かなカナンの土地に入ることもできなかった。今日の自分たちがあるのは、ただ神の深い慈しみのおかげ」という感謝を忘れて傲慢になってしまわないように、神の慈しみをいつも心の真ん中において歩む献身告白として「ささげもの」を大切にしました(申命記6章)。

 

新約聖書(キリスト教)の「ささげもの」は、旧約の基本的要素を受け継ぎつつ、「エジプト脱出」に代わって、「イエス・キリストにおいてあらわされた神の愛」に対する感謝と献身がその特長です。

「自分の力で罪を克服した信仰者のため」ではなく、「自分の力では罪の現実から抜け出せない、信仰の貧しいすべての者のため」に、イエス・キリストは十字架にご自身をささげられました。「立派になったら救ってやろう」ではない。「罪ある者」が「罪あるままに罪なき者」とされたのです。この不思議な恵みを心の真ん中に刻みながら生きる。それがキリスト者の「ささげもの」です。