「日本政府に、被爆国としての原点に返ることを求めます」。
今年の長崎平和宣言は、核兵器使用に関してあいまいな態度を取り続け、核兵器保有に協力的でさえある日本政府を厳しく批判しました。しかし、批判されるべきは政府だけではありません。あれだけの悲劇を経験しながら、私たちはどれだけ変わりえたのか。長崎と広島の悲しみと憤りの声の傍らを通り過ぎ、自分の課題としようとせず、ただ身の回りの生活を優先してきた「わたし」であることを考える時、「日本政府」に替えて「わたしの名前」をそこに入れて聞くべき言葉として受けとめました。
「お前たちが手を広げて祈っても…わたしは聞かない。まず、お前たちの血にまみれた手を洗って、清くせよ」(イザヤ1章15・16節)。主なる神の呼びかけは厳しく迫ります。同時に、今回の長崎平和宣言の中にも、主なる神の問いかけを聞くのです。
ヨハネ7章は、5章の「ベトザタ事件」(主イエスが安息日に男を癒した)に端を発したユダヤ人たちの非難と殺意に応えている箇所です。人々はイエスの「無免許・無資格」を問題にします。人前で教えるためにはラビ(教師)の学校を修了し、公認教師から免許を受ける必要があったからです。しかし、イエスは「わたしの教えが神から出たものかどうか。それはあなたが判断できるはずだ」と切り返します。まさに「バプテスト!」。「何が御心なのか…」。「先生が教えておられるから」ではない。「わたし」が祈り尋ね求めつつ考えていくのです。その際、求められているのは、うわべの裁きでなく、「義しい裁き(岩波訳)」であり「抑圧からの解放をもたらす裁き(本田訳)」です(7・24)。主イエスにならい、主イエスのごとく、主イエスと共に、立っていきましょう。