いのちの水が、いくすじの川となり 加藤 誠

 「わたしに信頼してあゆみを起こす人は、聖書が告げるとおり、自分の内から、いのちの水が、いくすじの川となって流れ出すのだ」(ヨハネ7・38:本田哲郎訳)。
 イスラエルの人々にとって泉からこんこんと湧き出る水は神の命の象徴でした。預言者エゼキエルは神の救いが完成する時、エルサレム神殿から命の水が湧き出て川となり、すべての生き物を生き返らせていく幻を語りました(エゼキエル書47・1以下)。その救いのビジョンは、新約聖書のヨハネ黙示録22章に受け継がれ、神と小羊(イエス・キリスト)の玉座から命の水が流れ出て、命の木が豊かに実を結ばせ、諸国の民の病を癒す幻が描かれています。
 またユダヤ教のラビの教えでは、最後の預言者ゼカリヤやマラキの死後、神の霊はイスラエルから離れたとされており、人々は神の霊があらたに注がれるメシア時代の到来を待ち望んでいました。仮庵祭(出エジプトの救いを記念する祭)が最も盛大に祝われる場面で、主イエスは立ちあがり「わたしに信頼してあゆみを起こす人は、新しい霊、新しいいのちが泉となり、いくすじの川となって流れ出る!」と大声で叫ばれます。もっとも、それは主イエスがそのように言葉を発した時点ではなく、十字架に磔にされて神の栄光をあらわした時にこそ実現していくのですが。

 すべてを死滅させる汚染水を毎日作りだし、漏えいし続ける福島第一原発。それを止めることができない私たち。原発の隣に増設され続けるタンク群は、私たちの愚かさそのものです。そのような者たちに対し聖書は、十字架につけられた方をこそ「信頼してあゆみを起こし」、「正義を洪水のように、恵みの業を大河のように流れさせよ」(アモス5・24)と今日も呼びかけるのです。