福音書に記された主イエスと弟子たちとのやりとりには、「行間」を想像して読むとなかなか面白い場面があります。マルコ9章33節以下もその一つです。旅の途中で、主イエスが弟子たちに「途中で何を議論していたのか」と尋ねると、「彼らは黙って」しまいました。「誰がいちばん偉いかと議論していたから」です。「まずい、イエスさまに聴かれていたんだ…」と互いに顔を見合わせたことでしょう。バツの悪そうな弟子たちの顔が思い浮かぶようです。
主イエスは「いちばん先になりたい者は、すべての人に仕える者になりなさい」と言って一人の子どもを抱き上げ、「この子どもを受け入れる者は、わたしを受け入れ、わたしを遣わした方(神)を受け入れるのだ」と語りかけます。「この子どもを受け入れるって?」。男の弟子たちは、この意表を突く主イエスの不思議な問いかけに首をかしげ、再び顔を見合わせたことでしょう。
それにしても、主イエスに抱き上げられるような小さな子どもが、なぜこの大切な会話の場面に居合わせたのか。子どもが居るからには母親も居たはず。弟子たちと一緒に、子ども連れの女性たちも同席していたはずです。ところが聖書は彼女たちの存在について何も語っていない。当時は男性中心の価値観が今以上に強く、女性や子どもの存在は「数えられない」のが普通だったからです。ですから、いま、聖書を手にする者は、「そこに居たのに、居なかったように扱われている人たち」の存在がしっかり見えてくるように、「行間」を想像して読む感性が求められているのです。
「あなたには、その存在が見えているか」。
わたしたちは、主イエスが男の弟子たちの真ん中で小さな子どもを抱き上げ、問いかけられた意味を、どこまでまっすぐ受けとめられているでしょうか。