「信仰」と「政治」はどう関わるのでしょうか。
『荒れ野の四十年』の演説で知られている西ドイツの元大統領ヴァイツゼッカーは自身の政治姿勢をこう語ります。「キリスト教信仰から特定の政治プログラムを引き出すことはできません。しかしキリスト教の人間理解と、神に対する責任理解が、我々の政治の倫理的基礎を与えてくれるのです」。
そこでは「罪」と「責任」はどう理解されるのでしょうか。『荒れ野の四十年』の演説の中でヴァイツゼッカーはこう区別しています。
「民族全体に罪がある、もしくは無実である、というようなことはありません。罪といい無実といい、集団的ではなく、個人的なものであります」。しかし「罪の有無、老若いずれを問わず、我々全員が過去を引き受けねばなりません。全員が過去からの帰結に関わりあっており、過去に対する責任を負わされているのです」。たとえば、ナチス時代にドイツ人がユダヤ人に与えた苦痛と死、その罪は当時の命令者や実行者にある。しかし、その被害者や遺族の悲哀をやわらげ、不信を取り除く努力は、戦後に生きるドイツ人にあるというのです。
ヴァイツゼッカーの政治姿勢には、「信仰」という筋が一本はっきりと通っていますが、その信仰はまず神の恵みと赦しのもとにある人間という「縦」の関係であり、その神に一緒に生かされているお互いという「横」の関係という、二つの責任の自覚が交わって「十字架」を指し示しているように思います。
「わたしの後に従いたい者は、自分を捨て、自分の十字架を背負って、わたしに従いなさい」(マルコ10・24)。あなたにとって、背負うよう招かれている「自分の十字架」とは何でしょうか。