2月13日から三日間、宮城県松島で全国教役者会研修会が開かれました。テーマは「教会形成と災害~東北・松島で考える」。六年前に未曽有の津波被害を受けた現場に身を置いて、原発事故の放射能被害を今も受け続ける人々の言葉に聴き、教会の存在意味を思い巡らし語り合う三日間となりました。
「教会は何のための集まりなのか?」、「災害時に教会は何をなすべきか?」。これらの問いに対して、今、わたしは「礼拝!」と答えたいと思います。
災害時は、とにかく誰もが身体を動かすことを求められます。救援や支援の働き、命を支え合うために、教会もできることを地域の人々と共に担うのです。避難場所や支援物資を提供することもできるし、全国のネットワークの強みを生かすこともできる。しかし、身体を動かす必要がある時こそ、実は「祈ること」「聖書に聴くこと」「一緒に礼拝すること」の重要性が際立ちます。もしそれを見失うなら、教会はボランティア活動の中に自らの存在意味を埋没させてしまうでしょう。
人はお互いに助け合い、支え合うことができる。しかし、人を究極的に救うのは神です。災害は、命の不条理の現実を突きつけ、社会の歪みをあらわにし、人々の間に裂け目をもたらす。災害において引き裂かれ、悲しみ、傷むわたしたちを、究極的に救うのはイエス・キリストです。言葉を失い、途方に暮れるわたしたちの間に立ち続け、十字架の暗闇に復活の希望を照らし続けるキリストが、わたしたちを神の愛に結びつけ、生かすからです。
災害のただ中で、また支援活動のただ中で、日々「礼拝」をささげ、自分たちの命と力の源を受けていく。そこに教会の存在意味があるのです。