親しい人の死は、さまざまな問いを私たちに投げかけます。
「人が生きた証とはいったい何なのだろう?」、「彼女/彼が大切にしたものは何だったのか?」、「彼女/彼から受け取ったものを自分はどう生かしていくのか?」などなど。その問いの多くは、簡単に答えの出せないもの、出してはいけないもののような気がします。問いを問いとして抱え続け、考え続けることの大切さを思わされるのです。
作家の黒井千次は、某新聞社の書評委員の会合で、委員たちが発する問いに次々に答えてしまう「博学」な委員を暗に批判して次のように書いています。
「それにしても、とあらためて考えざるを得なかった。謎や問いには簡単に答えが与えられぬほうがよいのではないかと。不明のまま抱いていた謎は、それを抱く人の体温によって成長し、成熟し、更に豊かな謎へと育っていくのではあるまいか。そして場合によっては、一段と深みを増した謎は、底の浅い答えよりもはるかに貴重なものを内に宿しているような気がしてならない。」(『知り過ぎた人』)
人が書いた小説を、自分の「博学」で一刀両断にすることなどできない。まして、ある人の人生そのものを、他人が勝手な了見で意味づけることは許されない。謎を謎として抱え続け、考え続けていく。そして、その人に命を与え、生かされた主なる神の憐れみと恵みの前に低くされていく。
召天者記念礼拝の今日、「わたしは自分で自分を裁くことすらしない。わたしを裁くのは主なのだ」(第一コリント4・3、4)と語る、使徒パウロの言葉に共に聴いていきたいのです。