「危険」な福音      加藤 誠 

イエス・キリストは「革命児」でした。「あの男が語る福音は危険だ」とバッシングを浴び、十字架で抹殺されました。イエスの説く「愛の神」は、イスラエル社会で「絶対的権威」だったユダヤ教の教えを根底から揺るがす危険な教えだったのです。

使徒パウロもまた「革命児」でした。パウロは、ユダヤ教が最も重要視した「割礼」(神の民のしるし)を批判したため、ユダヤ教徒だけでなくキリストの弟子たちの間でも危険視されました。ペトロたち多くの弟子は、ユダヤ教の枠の中でキリストの教えを説く「穏健路線」でしたが、パウロの説く「福音」はユダヤ教そのものを「解体」しかねない危険な教えだったからです。

 

「これは絶対正しい」、「あれは絶対間違っている」。

「自己絶対化」は相手を断罪して「危険」視し、異見を排除して、結果として自己閉塞に陥っていく。その「自己絶対化」が最も暴力化したものがテロであり戦争でしょう。イースターの日、礼拝に集う人々の命を奪った卑劣なテロを賞賛する姿に、人間の一番深い罪を見せられる思いがします。「自己絶対化」は相手の命を奪ってなお「自分の正義」を疑わないのです。

主イエスもパウロも、「愛の神」という中心から「ほんとうに大切なこと」と「そうでないこと」を大胆に問い直す中で、「新しいぶどう酒にふさわしい新しい革袋」を追求しました。「古い革袋」を大切にする人々から見るとその福音は「危険」そのものでしたが、「愛の神」のまなざしから見たら、どちらが「危険」に映るのでしょうか。自らを絶対化する人々の罪を黙って引き受けていかれた十字架の主のまなざしと祈りを、今朝も聖書から受けていきたいのです。