「共に」食卓を囲む私に求められていること 加藤 誠

 「教会はどうやって形づくられていくのか」という問いに、皆さんは何と答えますか。私は「共に礼拝を形づくることを通して」と答えます。なぜなら礼拝こそ、バラバラで決して交わることのない個性豊かな者たちを、神の前に「一つの共同体」として建てあげていく源泉だからです。
 礼拝は、「わたし」を主語にして語る生き方から「神」を主語にして語る生き方へと転換させると同時に、「神とわたし」という個人的な交わりから、「神と私たち」という、一緒に命を分かち合う仲間の交わりに私たちを招き入れます。
 その礼拝は、主催者である神が私たち一人ひとりを招待する宴会に似ていると主イエスは語られました。その招待は、わたしの側がどれだけ「神に対する信仰心を篤く持っているかどうか」を問いません。「あなたに来てほしい!そして一緒に食卓を囲みたいのだ!」という、神の側の熱い熱い思いあふれる招待だからです。
 そこで唯一求められる「礼服」は、神の熱い招待に対する「感謝と畏れ」のみであることを先週学びました。もう一つ、礼拝に参加している者たちに求められていることを今朝、ヨハネ6章から学びたいのです。五千人以上の人々を前に主イエスが感謝して分かち合われたのは、一人の少年が持っていた「大麦のパン五つと魚二匹」でした。常識で考えたなら、弟子のアンデレが答えたように「何の役にも立たない」ものです。では、少年は非常識だったのでしょうか。あるいは知恵が足りなかったのでしょうか。誰かに「君が持っているパンを出しなさい」と強制されたのではなく、少年は素朴に主イエスを信頼し、自発的に自分の手の中にあるものを委ねました。ここにヒントがあります。