「先が見えない」時にこそ   加藤 誠

複雑なジグソー・パズルは、完成した図柄を教えてもらえないと、お手上げです。似たような色を手掛かりにごく一部分を組み合わせることができたとしても、全体を仕上げることはまず不可能でしょう。同じように、わたしたちは自分の人生がどのような形で完成に向かうのかを知りません。知っておられるのは神だけ。ですから、わたしたちは「神さま、わたしの判断が間違っていたならば、どうか正して導いてください」と祈りながら、手探りで日々を歩むことになります。わたしたちは「いったいこのピースはどこにハマるのだろうか」と四苦八苦しますが、後になって、「あぁそうか、こういう形であの経験が生かされることになるのか」と知らされるのです。わたしたちは自分の知恵や力で自らの人生を完成させることはできません。わたしたちに命を与え、背負い、生かす神だけが、一人ひとりの人生を完成に導いてくださるのです。

 

エジプトからの大脱出という一大プロジェクトに立てられたモーセでしたが、神が起こされる「奇跡」がかえってエジプト王の頑なさを生み、イスラエルの民を苦しめる結果になります。そのためモーセは「あなたはほんとうにお救いになるつもりがあるのですか。なぜ、わたしを召し出されたのですか?」と神に食ってかかります(出エジプト5・22~23)。神が導かれる道は曲がりくねり、錯綜し、まっすぐではない。実に分かりにくいのです。近道を選ばず、あえて遠回りさせることもあります(同13・17)。しかし、その分かりにくい道を、夜は「寝ずの番」をして守り(同12・42)、「雲の柱と火の柱」(同13・21)をもって照らし出し、導いてくださる神の恵みを、人々は体験していきます。

「先が見えない」時にこそ、聖書が放つ光に照らされたいのです。