主なる神が「わたしはあなたをファラオのもとに遣わす。わが民イスラエルの人々をエジプトから連れ出すのだ」と、モーセをその使命に呼び出したとき、彼は「わたしは何者でしょう」と応えました(出エジプト3・11)。
このときのモーセは、「自分とは何者か」というアイデンティティを見失っていました。エジプト人としてもイスラエル人としても認められず、エジプトから逃亡してきたモーセ。「どこで、だれと、何に向かって生きるのか」を見失い、ミディアンの荒れ野を放浪していたモーセでした。彼はミディアン人の妻との間に生まれた息子に「ゲルショム」(寄る辺をもたない者)と名付けていますが、自分の「生きる場所」、「一緒に歩む人々」、「生きる使命」を見出せず、漂流する心を抱えていた様子をうかがい知ることができます。
使徒言行録のステファノの説教によると、召命を受けた時モーセは八十歳でした(使徒7・30)。彼がエジプトを逃げ出したのが四十歳ですから、実に四十年間、荒れ野をさまよっていたことになります。「このまま荒れ野で羊を飼いながら一生を終えていくのだ」と考えていたであろうモーセを、しかし神は再びエジプトに連れ戻し、かつてモーセに対して「だれが、お前を預言者や裁判官にしたのか」と厳しく拒否したイスラエルの民のもとに遣わします。自分が拒否され、居場所を失い、逃げ出した場所に連れ戻されていくのです。どれだけきつかっただろうかと想像します。けれども神がモーセを捕えた使命こそ、エジプトで四十年、荒れ野で四十年を過ごした彼の経験が豊かに用いられる働きであり、「わたしは何者でしょう?」とつぶやいていたモーセを「神の作品」(エペソ2・9口語訳)として創り上げていく働きだったのです。