巻頭言「一つの言葉」を打ち砕く主  加藤誠

 

 先日のペンテコステ礼拝での多言語聖書朗読を聞きながら、「言葉というのはどうしてこんなにも違うのだろう?」と、世界の言語の多様性というものを改めて考えさせられた。

 世界には約七千もの言語があるという。言語はそれを話す人びとの生活や文化と分かちがたく結びついている。「自分」という存在を認識し、表現し、思考するのに言語は必須のツールであり、その人のアイデンティティ形成に重要な役割を担う。なので、「母語」を奪うことはその人の存在と尊厳を奪うのに等しい。けれども人間は、強者が弱者の言語を奪い、自分たちの言語使用を強制する歴史を繰り返してきた。日本の場合、日本語とアイヌ語、琉球語の三つがあるが、日本語話者たちはアイヌと琉球の人びとの暮らしを奪い、日本語使用を強制し、その尊厳を深く傷つけてきた歴史を忘れてはならない。

 創世記十一章「バベルの塔」物語には、イスラエルの民がバビロンに捕囚させられ、バビロン帝国の言葉と文化を強制させられた経験が下敷きになっているという。「世界中は同じ言葉を使って、同じように話していた」(一節)とは、歴史の強者であるバビロンが征服民たちに「一つの言葉」の使用を強制していた実態が重ねられているのであり、バビロンの人びとが「天にまで届く塔を建て有名になろう」とおごり高ぶり、征服民たちを「バベルの塔」の建築労働に駆り立てた時に、主なる神はそのバビロンの深い罪を打ち砕くために言葉を混乱させて人びとを全地に散らされたのだ…と。

 ペンテコステにおいて世界に遣わされる教会は、自分たちの言葉を「絶対化」して福音を伝えるのではなく、相手の言葉と尊厳を尊重し、その言葉に聴き、相手を理解しようとする中で、イエス・キリストによる和解と希望と喜びを分かち合っていくように、聖霊によって立てられていくのである。