巻頭言『「良い土地」とはどんな土地か?』加藤誠

「種を蒔く人」のたとえを読むたびに、「良い土地」になれない自分の信仰の弱さを示されます。主イエスが「種」である神の御言葉を蒔いてくださるのに、ふさわしい実を結ぶことができない。「道端」のような固さを抱え、「茨」が生え、「石」がゴロゴロしている自分を示されるのです。

 ある時「最初から良い土地なんてない!」という農家の方の言葉にハッとさせられました。「最初から柔らかく、石ころ一つない、茨のような雑草も生えていない土地なんてあるわけないじゃないですか!」。栄養分を含んだ良い土ほど雑草がよく生える。毎日鍬を入れ、石を取り除き、雑草を抜く。そうやって毎日手間をかけないと良い土地は保てないのだと。

 また、ある大学保育科教師の言葉に考えさせられました。「子どもが好きだから幼稚園の先生になりたいという純粋さは大切だけど、それだけでは教師はできない。子どもと向かい合い、自分の力量の拙さ、自らの弱さを示されては砕かれて落ち込む。それでも、やっぱり教師になりたいともう一度現場に出かけていく。その繰り返しの中で少しずつ教師として練られていくんです」。

 最初から豊かな実を結ぶクリスチャンはいない。御言葉に生きようとして挫折し、祈りを大切にしようと決意しては誘惑に負けてしまう情けない日々の繰り返し。それでも私たちを覚えて祈り、御言葉の種を蒔き続けてくださる主イエスの愛につなげられて御言葉の前に座り直す。「教会も結局は罪人の集まりじゃないか!」と失望してはもう一度主日礼拝に戻ってくる。「それでも聖書、やっぱり教会」。主イエスの祈りに支えられて、雑草と石だらけの土が耕される出来事を重ねながら、共に教会として建てられていきたいのです。