かつて連盟の先輩牧師が「説教にならない説教がある」と言われたことがある。「自分のことをとうとうと語る説教、自分の解釈を絶対化して押し付ける説教。それは教会の説教にならない」という意味だったように思う。
教職制の教会は「教団の認定試験を通った牧師の教えは正しい」という前提で、信徒は基本的に「牧師の説教に聴き従う」ことが求められるけれども、バプテストの場合、「聖霊の働きによって、信徒一人ひとりが聖書の御言葉を理解し、語ることができる」という理解に立つ。バプテスマを受けた信徒は、それぞれ「宣教する弟子」、キリストを伝え、証しする役割をいただいている。礼拝説教の奉仕は担わなくても、自分が受けとったキリストの恵みを自分の言葉で人々に紹介していく大切な奉仕をいただいているのだ。
それゆえ教会に立てられた牧師は、自分の御言葉理解を「これが正しいのだ」と押し付けることはできない。教会員それぞれの理解に繰り返し「聴いて、対話し、学ぶように」招かれている(厳しい批判の言葉も含めて)。
そのバプテストにおいて、礼拝説教はどのようにして教会の説教になるのか。
一つには「聖霊の働きを求める祈り」。「聖霊の働き」により説教者が自分の受けた御言葉を大胆に語ることができるように、同時に「聖霊の働き」により聴く一人ひとりが心低くして受けることができるように。
もう一つは「自分はこの御言葉から何を聴くのか考え、対話しながら説教を受ける」こと。「語りっぱなし」で終わらせない。そこから「対話」が生まれることを祈っていく。説教者は競技場で、会衆は観客席に座るのではなく、会衆も説教者も競技場で一緒に競技する者として「聖霊の働き」を求めて祈る。
そのときに「礼拝説教が教会の説教になる」のではないだろうか。