最後に主の言葉だけが   加藤 誠

アメリカでキリスト教徒とイスラム教徒との対話の場作りを試みている友人がいます。両者の信仰には異なる部分が多いものの、「宗教者としてどのように平和に貢献していくか」というテーマは一緒に取り組むことが可能なはずと考え、彼女は単身で金曜日のモスクの集会に出席を始めます。当初、クリスチャンの何人かが「一人でモスクに行くのは危険だ。やめるべきだ」と忠告したそうです。しかし今、彼女はこう語ります。「確かにモスクへの出席には慎重さが求められた。けれど少しずつ親しくなると、私の話に共感し一緒に考えてくれる友人が与えられていった。自分たちの信仰を絶対視してイスラム教徒を敵視し、わたしを裏切り者呼ばわりするクリスチャンの方がずっと怖いと感じた」。自分が信じる神への熱心さのあまり、自分と異なる信仰を敵視する構造に陥る危うさを宗教は抱えています。けれども、主イエスがその十字架の道で示されたのは、愛の神に信頼しつながるからこそ、自分と異なる者とも対話しながら差別や偏見を砕かれ乗り越えていく信仰であったはずです。

 

アナニアは「迫害者サウロが視力を失って倒れた」との知らせを受けた時、「主は迫害者の悪の手から我らを救い出された!」と感謝したことでしょう。ところが彼は「そのサウロのために祈り、彼の目を開けよ」という主の言葉を聞くのです。「多くの仲間の命を奪った男を助けよというのか?」。アナニアの心中でどれだけの葛藤が沸き起こったことでしょう。しかし彼は祈り、最後に彼の心には「行け」という主の言葉だけが残っていきます(使徒9章)。

アナニアは使徒でも長老でもありません。一信徒です。しかし、一信徒の祈りの葛藤と献身が主イエスの教会の宣教の歴史を切り拓いていったのです。