巻頭言「「疑う者たち」へ 加藤 誠」

教会に「共に集い合う」形での礼拝が休止となり、カメラに向かって説教する礼拝を経験する中で、あらためて普段の礼拝でどれだけ会衆の賛美や祈りに励まされ、奏楽者や聖歌隊の奉仕に支えられてきたか。教会にとって「集い合う」ことの大切さを受け取り直している。顔と顔を合わせ、安否を尋ね合い、言葉を交わす。礼拝前のざわめきが奏楽の中で次第に整えられていく緊張感。誰かが祈る時にもそれを聞きながら心を合わせる会衆がそこにいることの意味の大きさ。カトリックの場合は、司祭がそこに一人居ればミサが成り立つが、バプテストの場合は、牧師以上に一人の会衆が礼拝を選び取ってそこに居る意味の方がずっと重たい。一週間の中で、その時間を聖別し、礼拝を選び取る「一人ひとり」が居て、教会は形づくられる。

主イエスの「復活」の知らせを聞いた「十一人の弟子たち」は「ガリラヤの山」に向かった(マタイ28・16)。そこには「疑う者もいた」という(同17節)。「疑う者」は複数形なので一人ではない、何人もの弟子が「疑い」を抱えていたのだ。「復活なんてありえない!」という疑い、十字架の痛手が大きすぎて何を聞いても否定的に反応してしまう思い、あんな裏切り方をしてしまった自分がどんな顔で主イエスに会えるのかという戸惑いなど。十字架によって信仰を打ち砕かれ「傷」を抱えた者たちを、主イエスは「山」に招かれる。マタイ福音書の「山」は、神のみ言葉に集中する場所(5・1)、静かに祈る場所(14・23)、神が御業をあらわす場所(17・1)。この世界を覆う暗闇の中でいろいろな疑いを抱え歩む者たちが、もう一度神の恵みの前に立て直されていく場所。復活の主イエスの招きを受けて、共に礼拝から歩み始めていきたい。