ポンテオ・ピラトのもとに 加藤 誠

 キリスト教会が大切にしてきた「使徒信条」という歴史的信仰告白があります。大井バプテスト教会も、教会員一人ひとりもその「信条」に拘束されることはありませんが、その簡潔な告白内容に学ぶことは有益です。
 「我は天地の造り主、全能の父なる神を信ず。我はその独り子、我らの主、イエス・キリストを信ず。主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ、死にて葬られ、陰府にくだり、三日目に死人のうちよりよみがえり、天にのぼり、全能の父なる神の右に座したまえり。かしこより来たりて生ける者と死ねる者とを審たまわん。我は聖霊を信ず。聖なる公同の教会、聖徒の交わり、罪の赦し、身体のよみがえり、永遠の生命を信ず。アーメン。」(波線:筆者)

なぜ主イエスが十字架につけられたのか。「使徒信条」は「我らの罪をあがなうために」というような理由には一切言及することなく、ただ「ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け」と表現します。ポンテオ・ピラトは当時のローマ総督です。彼は、主イエスの生死に関して最終的な政治的判断と決断が可能な人でした。主イエスが「そのピラトのもとに苦しみを受けた」ことをなぜ「使徒信条」はここまで重視するのか。そのわずか十七文字の裏に込められた「わたしの罪」をしっかりと考え抜いていくことは、私たちキリスト者が自分たちの信仰告白の歴史的・社会的責任を考える上で不可欠です。
今日、二〇一三年七月二一日の参議院選挙は、日本の国の大きな「分かれ道」になることでしょう。選挙後の日本にあって、どんな嵐と向かい合うことになったとしても、ブレることなく主イエスの御言葉に聴き従い続けていく。大井教会がそのような群れであり続けられるように、聖霊の導きを切に祈ります。