巻頭言「大井の町に鐘は響けり 加藤 誠 」

 礼拝堂の基礎部分の解体では、バプテストリー付近の基礎が特に大きく頑丈に造られていて時間を要していた。建物が建っている時には見えないが、基礎の大切さを改めて考えさせられる。新礼拝堂の基礎の一番下には、大谷賢二先生が手を置いて祈られた御影石の門柱を埋める予定である。大井教会を建て続けてきたイエス・キリストという土台を受け継ぐ私たちでありたいと願う。

先日、福岡の大谷凱基さん(大谷賢二先生の三男)から電話をいただき、現礼拝堂にまつわるエピソードをいろいろと聞かせていただいた。

戦後、紋谷医院から買った土地は瓦礫だらけで、整地はすべて教会員の手作業。戦地帰りの松本さんの号令に合わせ「ヨイトマケの唄」にのせて「神さまのためなら/イエスさまのためならエンヤコーラ」とみんなで掛け声をかけながら地面を踏み固めた。教会の鐘は、大谷賢二先生の叔父さんが京都まで行き、お寺の鐘を造る業者に特別に注文したもの。毎日朝六時、正午、夕方六時に鳴らしたが、牧師家の男子たちが鐘を鳴らす役割を担った。中学生だった凱基さんは朝六時の当番で暑い日も寒い日も休むことなく鐘を鳴らした。その鐘の音は大井競馬場まで響き、大井警察署で取り調べを受けていた人が鐘の音を聞いて観念しゲロ(罪を白状)したこともあり、警察からは「大いに鐘を鳴らしてほしい」と言われたとか。けれども設計士の吉原先生から「鐘の重量が重く(五十キロ)木造の鐘楼に負担が大きいので鳴らさないように」言われて止めた。最後の鐘は榎本譲さん・青木さゆりさんの結婚式(一九八七年)だった等々。

日々の時を刻み、「ここに教会がある」ことを知らせる鐘の音が大井の町に響いたのどかな時代を想う。「ここに愛がある」とイエス・キリストを紹介する私たちは、どのようにその喜びの響きを伝えていくのか。