青春の日々に、心を留めよ   加藤 誠

聖書は「青春の日々にこそ、お前の創造主に心を留めよ」(コヘレト12・1)と語ります。「信じなさい」とは言わない。ここが興味深いところです。
実はこれを書いたコヘレトは面白い人で、「神を信じよ」という言葉を一度も使いません。彼は自分の身の周りや世界中に起こっていることをよく観察し、考え抜いたうえで「すべては空しい」と言います。この場合の「空しい」とは「神がおられるのに、なぜこんなことが起こるのか。その意味が理解できない」という意味です。彼は無神論者ではなく、創造主なる神の存在を受け入れているので、それゆえの疑問が次々に湧いてくるのですが、それらの問いと格闘する中で彼なりの「人生論」を得ていく。それが「コヘレトの言葉」です。
ですから、彼が「お前の創造主に心を留めよ」と語りかけたのは、次のような意味においてではないかと思うのです。「神がなぜこの世界を創り、一人ひとりに命を与えられたのか。自分はいったい何のために生まれてきたのか」。この問いは実に根源的な問いで、決して簡単に答えが出るものではなく、生涯考え続けなければならないもの。だから、少しでも若い時から、自分自身で考え、格闘し、尋ね求めて行け。年を取ってから「そろそろまとめて考えよう」では遅い。頭が柔軟で、いろいろなことにチャレンジできる若い時にこそ問いに取り組み始めて、あなた自身の人生を大切に歩みなさい、と。

このコヘレトの姿勢を考えるとき、教会は「この世界と神に対する問い」に対して、自分たちはすでに答えを持っているかのように立つのでなく、常に新たに「なぜ?」と問う柔らかさをもって、若者たちと一緒に問い続けていく姿勢を大切にしたい。そう思うのです。