赦されざる者 加藤 誠

先週二六日に始まった受難節(レント)に合わせて発行された『イースターニュース』(Vol.1)に次のような言葉がありました。「わたしたちの教会の十字架には、誰もかかっていません。それだけに、『そこに、誰が何のために架かっていたのか思い出せ!』と強く迫られているような気がします。聖書がそれを思い出させてくれるでしょう」。

使徒パウロは「十字架にかかり給いしままなるキリスト」を常に見続けて歩みました。さて、わたしは十字架の上にどのようなキリストを見出して歩むのでしょうか。

マルコ福音書を読んでいると、当時のユダヤ教徒たちが命を賭して遵守していた「安息日律法」を堂々と破って病気や障がいを癒していくイエスに対して、猛然と反発し憎悪を募らせていくユダヤ教指導者たちが描かれています。彼らはイエスが安息日を軽視するのは「汚れた霊に取りつかれている」証拠であり、イエスが悪霊を追い出せるのは「悪霊の親分だからだ」と非難しました。すると主イエスはこう切り返します。「はっきり言っておく。人の子らが犯す罪やどんな冒涜の言葉も、すべて赦される。しかし、聖霊を冒涜する者は永遠に赦されず、永遠に罪の責めを負う」(マルコ3・28~29)。

これは非常にショッキングな内容を含んだ問題発言です。「どんな罪も赦される」とは、例えば身勝手な理屈をつけて何人もの尊い命を奪った犯罪者も「赦される」ということなのでしょうか。また「聖霊を冒涜する罪」とはどのような罪なのでしょうか。今朝は「赦し」を巡る主イエスの言動を通して、神が私たちに語りかけておられるところを聴いていきたいのです。