貧しい者のさいわい   加藤 誠

「イエスは…ご自分が生きていることを、数多くの証拠をもって使徒たちに示し、四十日にわたって彼らに現れ、神の国について話された」(使徒1・3)。

 

主イエスの宣教を弟子たちがバトンタッチして引き受けていくのに「四十日」を要したと聖書は記しています。十字架という肝心な場面で主イエスに従いきれず、こなごなに粉砕された信仰がもう一度建て直されるために「四十日」が必要だったのです。

例えば、十字架が待ち受けているエルサレムに入城する直前、弟子のヤコブとヨハネがこっそり主イエスのもとに来て、「あなたが栄光をお受けになる時、わたしたちがどれだけ貢献してきたかをぜひ忘れないでください」と言った時、「お前たちは自分が何を願っているのかが分かっていない!」と厳しく一喝される出来事がありました。復活後、主イエスに再会した彼ら二人は恥ずかしくてまともに主イエスの顔を見れなかったことでしょう。しかし、そのように自らの信仰の貧しさと愚かさを味わい知った者こそが、神の国の宣教に必要とされていることを、主イエスから学び直していくのです。

「そういえば、主イエスはいつも『貧しい者のさいわい』を語っておられたよなぁ」。すべてが、以前に主イエスから教えてもらったことばかり。十字架と復活を経た今、改めて主イエスが語る「神の国」の教えの一つ一つが「他人ごと」ではなく、「自分のこと」として彼らの心にしみていったのです。

「貧しい者」は自分だけで立てないことを知っています。「聖霊の力」を待つ大切さを知っています。「わたしには何もない。神の国にふさわしい信仰と愛を与えてください」。この祈りだけを知る「貧しい者」とされたいのです。